たったひと世代前まで、
求人票には「容姿端麗」と書かれているのが当たり前だった。
美しさは“条件”であり、女性は外見で選別される存在だった。
時代が進んだ今でも、外見の評価は静かに私たちを取り巻いている。
ルッキズムという言葉が一般化しても、その価値基準は社会の根っこから消えていない。
美しさを求めることは悪ではない。
でも、美しさの価値基準が他人軸のまま固定されている世界は、人を確実に疲弊させる。
だから、私たちの世代――ミドル女性が“闇堕ち”するのは、実は当然の構造なのだと思う。
美しさを求める社会と、変わらない正解
外見に価値を置く社会は、求める基準がとにかく厳しい。
若さ、ハリ、整った顔立ち。
「こうあるべき」という正解が、まるで静止画のように固定されている。
しかし、美は本来“生物”だ。
細胞が入れ替わり、たるみ、乾き、痩せ、回復し、また変化していく。
生き物が変化するのは当然なのに、
社会はその“変化”を評価せず、
瞬間だけを切り取ってジャッジし、
老いを揶揄の対象にする。
ここに、大きな矛盾がある。
社会は、美を使い捨てる
美を求める視線はとても厳しいのに、それを求める側の美意識が育っていないことだってある。
•他者の外見には口を出すのに、自分へのケアはゼロ
•年齢を軽視し、若さだけを価値にする
•老いを揶揄し、劣化と呼ぶ
•美しさを求める基準を押しつけるのに、自分の生き方は省みない
社会全体が、「美は使い捨て」「価値が下がったら不要物」
そんな残酷さを、当たり前のように行なっている。
これは“個人の欠点”ではなく、文化が生み出した構造的な暴力だ。
ミドル女性が闇堕ちするのは当たり前の構造
ミドル世代の女性たちが抱えやすい孤独や自己否定は、本人の弱さではない。
•若さを価値のピークに置く社会
•老いをネガティブとして扱う言語
•おばさんという侮蔑語
•美容をすれば“必死”、しなければ“終わった人”
•どちらを選んでも否定される二重拘束
それでなくても、身体の働きが大きく変わる女性の転換期に、心身のケアだけでなく“過剰な美容ケア”にまで気を配らせるのは酷だ。
本来ならもっと静かに自分をいたわるべき時期なのに、社会の視線はそれすら許さない。
美容を否定したいわけじゃない
私は美容を否定したくない。
むしろ整えることは、自分に優しくする行為だと思っている。
問題はただ一つ。
誰の価値基準で、美を選んでいるのか。
社会が求める美ではなく、
他人軸の正解でもなく、
誰かの承認のためでもなく。
自分の生活の質のため、
自分の尊厳のため、
心が軽くなるために“整える”なら、
それは完全な自分軸の美だ。
私たちは本来、組曲のように美しい
美しさは一本の直線ではない。
若さがピークで、以後は落ちていく——
そんな表ばったグラフのように描けるものではない。
むしろ私たちは、
第一楽章、第二楽章、第三楽章。
それぞれの段階が、別々の旋律で美しい。
若さの美しさがあり、
成熟の美しさがあり、
静寂の美しさがある。
その全てが“組曲”として一つの人生を奏でている。
だから、変化していくことは失点ではない。
むしろ“章の変化”なのだ。
結論:美は娯楽でも贅沢でもない。尊厳とQOLの話
美しさを求めることは、
自己肯定の欠落でも虚栄心でもない。
それは、
•心が軽くなるため
•自分の顔を好きでいられるため
•社会の圧に潰されないため
• “自分軸の美” を取り戻すため
そういう生活の質と尊厳の話なのだ。
美は娯楽でも贅沢でもない。
人生にわたって向き合い続ける、
静かで深いテーマだ。
そしてそれを語る場所として
Juna Mind & Beauty は、
静かに行き先を照らす灯りになりたい。
そう考えている。
— Juna Mind & Beauty
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